「性善説」を前提にすると? ビジネスで誰もが幸せになるために

「性善説」を前提にすると? ビジネスで誰もが幸せになるために

公開日:2022/04/22

「ビジネスは自分たちだけでなく、周りの誰もが幸せになることを目指すものだ」 そう言ったら、どんな反応が返ってくるでしょうか。 「世の中はそんなに甘くない」「そんなに都合よくコトが運んだら誰も苦労しないよ」 そう言われてしまうかもしれません。
では、渋沢栄一は? 2024年に刷新される1万円紙幣の「顔」になることが決まると、それをきっかけに一大ブームが巻き起こり、さまざまなメディアで取り上げられました。彼を主人公にしたドラマは高視聴率をマークし、彼の著書『論語と算盤』の現代語訳は60万冊を売り上げてベストセラーに。 その利他的な生き方に触れ、共感した方も多いのではないでしょうか。
彼は言います。 「商才と道徳とは切り離せない」「商才は論語で十分養える」と。*1
栄一にとっての最大の使命は、人々の生活を経済的に心配のないものにして、さらには豊かにして、みんなを幸せにすることでした。*2
栄一が敬愛した二宮尊徳はというと・・・。 1820年、世界に先駆けて信用組合の原型となる相互扶助制度を発案しましたが、この制度も儒教の教えが基盤になっています。*3
日本には「ビジネス X 倫理」の系譜がある。そして、その根底にあるのが、人の良心を信じる「性善説」です。

性悪説から性善説へ

コンプライアンス意識の高まりとともに、現在は経営者や社員に対する管理体制が厳しくなっています。 一方、「性悪説」から脱して「性善説」にシフトしようとする動きもみられます。 そうした動向をみていきましょう。

コーポレートガバナンス

まず、コーポレートガバナンスの問題です。 コーポレートガバナンスとは、「投資家、株主、従業員等の利害関係者を守る為に企業経営を監視し、監督すること」です。*4 そのために、社外取締役の設置、情報開示体制の確立、社内規程の設定などを行います。

日本では2015年にコーポレートガバナンスの原理原則を記した「コーポレートガバナンス・コード原案」が公表され、その後、実践のためのガイドラインも策定されています。*5、*6

一方で、このようなコーポレートガバナンスに疑問を呈する研究者もいます。*7 一橋大学の田中一弘教授は、「経営者は自利心(利己心)しか持っていない」という経営者観を改めるべきだと述べています。良心の力を信頼して「経営者性善説」に立つ「良心による企業統治」を唱えているのです。

田中教授の研究テーマのひとつが、渋沢栄一の実践と彼が唱導した「道徳経済合一説」です。栄一は日本に近代的な会社制度・企業経営を取り入れ、良心による企業統治を体現した経営者です。そして、冒頭に記したように、彼の主張は、経済と道徳は矛盾するものではなく、両立が可能だというものでした。

栄一は、公益は大切だとしながらも、私利追求も大事だとして、積極的に肯定しています。ただし、私利追求よりも頭一つ分、公益追求を優先すべきだというのが彼の考えで、これが彼の経営論のエッセンス。 義務が第一で権利が第二。義務が表で権利が裏。 それは、日本社会では今でも尊重される態度ではないかと教授は指摘しています。

スマートワーク

社員ファーストの職場を実現するために、性善説を適用すべきだという動きもあります。 それは新しいワークスタイルである、スマートワークの分野です。*8

スマートワークとは、「ICTを活用した、時間・場所にとらわれない柔軟な働き方」のこと。その目的は、従業員の生産性向上やワークライフバランスの実現です。

具体的な取り組みは企業によって異なりますが、例えば、業務中の無駄を見直し、社内の制度も含めて改善しつつ、ICTツールなどを活用する。そうすることによって従業員は本来業務に集中できるようになるのです。

スマートワークの運用のポイントの1つが、「性善説で考えること」。 ビジネスでは、ルールを重視するあまり、利便性は二の次になってしまうことがあります。特に、一度不正が発生すると、再発防止策として手間のかかるプロセスを追加したり、複数人の担当者・管理者が不正を見落とさないようチェックを重ねたりする。 そうしたルールを性善説ベースで見直すことが大切なのです。その際、AIやICTなどの先進技術やツールを活用すれば、煩雑な不正チェックやルールは不要となるでしょう。

性善説が紡みだす豊かな世界

次に、性善説に立った取り組み事例をみていきましょう。

失敗を肯定的に捉えるマインド

ただ、この問題は社員の心構えだけでは解決しない問題です。 心理学では、社会的な上下関係が部下の主張を妨げると考えられています。*3 だれでも権威のある人の意見には逆らいにくく、また上司からの評価を気にします。

したがって、失敗は悪いことではなく、失敗こそが学びのチャンスだと失敗を肯定的に捉え、失敗を咎めない社風が必要です。

アメリカの大手成功企業のトップたちはそれをよく理解しています。 2017年5月、コカ・コーラの新CEOとなったジェームズ・クインシーは就任直後、こう述べました。*4

相互扶助金融制度「五常講」

まず、冒頭で述べた二宮尊徳の相互扶助制度「五常講」がどのようなものだったのか、それがどのような恩恵を人々にもたらしたのかみていきます。

五常とは、儒教が重んじる5つの徳目で、尊徳はそれをこの金融制度に巧みに取り入れています。*3

  • 仁:金に余裕のある者がこの講に貸し出し基金を出す
  • 義:この講から金を借りる者は約束を守って確実に返済する
  • 礼:借りた者は貸してくれた者に感謝する
  • 智:借りた者は確実に1日でも早く返済できるように努力工夫をする
  • 信:金の貸し借りには相互の信頼関係が欠かせない

こうした5つの徳目を守るのが「五常講」に加入する条件。それが徹底されたため、貸し倒れなどの返済のトラブルはほとんどありませんでした。皆、加入者に迷惑がかからないようにルールを守ったからです。

最初の資金はすべて尊徳が出しましたが、その融資で窮地を救われた人々が、恩返しとして自分の資金を提供するようになりました。銀行がなかった時代に、このシステムは利殖の手段としても貴重でした。

それがやがて、「皆のお金を皆に貸す」という相互扶助制度に発展し、信用金庫の原型となるような、新しいビジネスモデルが誕生したのです。

YKKの「善の循環」思想

YKKは世界のファスナー業界でゆるぎない地位を確立しています。世界シェア40%以上のグローバル企業。*9

ただし、40%は金額ベースのシェアで、数量ベースでは20%、残りの80%は中国製です。 かつてYKKが欧米の先進的な企業に追いつき追い越したように、中国企業がすぐ後ろに迫ってきているのです。

しかし、こうした危機的な状況においても、YKKは自己変革を遂げ、柔軟に対応して活路を見出しています。 しかも、YKKは決して単独で利益を独占しようとはしません。関係者はもとより、自社工場がある各国の地域も豊かになるように、ビジネス・エコシステムを形成しようとしているのです。

例えば、将来を見据えて、世界のアパレルメーカーがシフトしつつあるアジア諸国の人材を育成するために、タイの有名大学と提携して、将来の技術者やエンジニアの養成に投資しています。

こうしたYKKの取り組みを可能にしているのは、創業者の吉田忠雄氏が唱えた「善の循環」思想です。 それは、「他人の利益を図らずして自らの繁栄はない」というもので、その思想のもとに、顧客のためのビジネス・エコシステムの一部にもなります。

たとえば、こんなケースがありました。 YKKを信頼して唯一の取り引き相手にしてくれたアメリカのジーンズ会社はアメリカ各地に工場をもっていました。 YKKはその会社の利益を考え、その会社の工場のすぐ近くにファスナーを納品するための拠点を築き、できるだけ短期間で納期できるようにしました。

そうした取引き会社からの細かいオーダーに長年応え続けてきたため、製造可能なファスナー製品は、10万種類に上っています。 この豊富なバリエーションがYKKの強みの1つ。

こうして、YKKはこれまで、さまざまな国や地域にあるクライアントの拠点近くに工場を作ってきました。ヨーロッパ、アメリカ、中国・・・、そしてこれからはアジア諸国にも。 「善の循環」思想に基づきクライアントの利便性を考えた結果、海外拠点は既に100社に上ります。

あえて性善説に立つという選択

人の内面は複雑です。聖人君主でもないかぎり、善も悪も潜んでいる。善ばかりの人もいなければ、悪だけの人もいない。

相互扶助金融制度「五常講」

その悪の部分を警戒して、不祥事や不正を防ぐために管理体制を強化しようとする方向性にも理がないとはいえません。

ある企業は、店員の制服にポケットをつけないことで、店員の窃盗行為やスマホの持ち込み、不適切なSNSへの投稿を防いでいます。

また、あるファーストフード店は、わざと固い椅子を用意したり、BGMを敢えて大きめの音量で流したりして、客の長居を防いでいると指摘する人もいます。*10

これらは「環境管理型権力」と呼ばれるもので、人の規範に訴えることも、規範を内面化した人間性を前提とすることも、規範を遵守しようとする意識の働きも求めません。 店員は、あるいは客は、無意識のうちに管理され、管理者の意図に従い、そのことによって確実に効率よく社会秩序が実現するのです。

最初の資金はすべて尊徳が出しましたが、その融資で窮地を救われた人々が、恩返しとして自分の資金を提供するようになりました。銀行がなかった時代に、このシステムは利殖の手段としても貴重でした。

そうした管理方法を人間の叡智と捉えるのか、それとも人間性への冒涜ととるのかは難しいところですが、そうした「性悪性」に基づく方法で、私たちは既に、それと知らずに管理されています。

ただし、こうした環境管理型でも、予測がつく、あるいは既にある問題には対処できますが、一番のリスクは予測できない事態です。起こるか起こらないかわからないこと、想定外のことを完璧に防ぐ方法はあるのでしょうか。

一方、性善説に立ったとしても、不正や不祥事を完璧に抑止することはできません。ときにはルールを逸脱して、とんでもないことをする人がいることを、私たちは経験的に知っています。

しかし、先ほどみてきた取り組みは、いずれも大きな実りを得、その目的である「自分だけでなく、皆が幸せになること」が実現していました。 その基盤となるのが人の良心を信じる性善説であり、それに基づいた倫理です。

そのことは、「ビジネスの本質とは何か」という問いに、1つの明確な答えを提供しているのではないでしょうか。

資料一覧

  • *1 渋沢栄一『論語と算盤』2020年オリオンブックス(Kindle版)No.69-70
  • *2 田中一弘(2015)「報告: 渋沢栄一の道徳経済合一説」企業家研究フォーラム『企業家研究〈第12号)』(2015年12月20日)p.38
  • *3 松沢成文(2016)『教養として知っておきたい二宮尊徳 日本的成功哲学の本質は何か』PHP研究所(電子書籍版)No.338-359、N0.363-390
  • *4 デロイト「コーポレートガバナンス」
  • *5 野村総合研究所「コーポレートガバナンス・コードとは」
  • *6 経済産業省(2018)「コーポレート・ガバナンス・システムに関する実務指針 (CGS ガイドライン)
  • *7 一橋大学ウエブマガジン 田中一弘「『性善説』を前提とした企業統治を捉えなおしてみる」
  • *8 @DIME(2022)「浸透するか?新しい働き方のキーワード『スマートワーク』『サイドハッスル』」
  • *9 菊澤研宗(2019)『成功する日本企業には「共通の本質」がある ダイナミック・ケイパビリティの経営学』朝日新聞出版(電子書籍版)pp.72-74、pp.80-82
  • *10 権安 理(2015)「『動物化』時代における公共性をめぐって ─『質料的公共性』の可能性」早稲田社会科学総合研究 第16巻第1号 pp.182-183

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Profile

横内 美保子

博士(文学)。総合政策学部などで准教授、教授を歴任。専門は日本語学、日本語教育。
留学生の日本語教育、日本語教師育成、リカレント教育、外国人就労支援、ボランティア教室のサポートなどに携わる。
パラレルワーカーとして、ウェブライター、編集者、ディレクターとしても働いている。

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