徳川家康(1542~1616)は、戦国・安土桃山時代の武将・戦国大名。約260年続いた江戸幕府の初代征夷大将軍であり、徳川将軍家・御三家の祖。三河国(現在の愛知県東部)の国衆・松平家の嫡男として生まれ、織田信長との同盟関係を基盤に勢力を拡大。豊臣秀吉の死去後、関ケ原の戦いで石田三成率いる西軍を破って征夷大将軍となる。大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、日本全国を配下に収めた。
家康が信長から学んだこと:存続のために長期的なビジョンを持つ
連載の第2回で、家康が武田信玄に多くを学んだことに触れましたが、逆に豊臣秀吉は家康にとって常に反面教師でした。
豊臣政権はとにもかくにも軍事政権で、秀吉は天下を取ることだけが目的でした。天下を取ることによって、どんな世の中を作りたいかなど、秀吉は考えもしませんでした。ただ天下を取って頂点に立ち、それまで自分を馬鹿にしてきた連中をひれ伏せさせたいということだけが、秀吉のモチベーションでした。天下統一後の国家像やビジョンを一切持っていなかったところに、豊臣政権の弱点は隠されていたのです。
その一方、天下統一後は「交易によって富をかき集める」という明確なビジョンを持っていたのが織田信長でした。土地をベースとした稲作中心の経済の仕組みが早晩行き詰まり、将来は国内外の交易で貨幣を稼ぐことがより大きな富をもたらすと知っていたのです。信長は宣教師たちから欧州の様子を聞いていたからこそ、目指すべき国家像ができていたのです。
信長の父・信秀は、伊勢湾に交易網を築き、自国領である熱田・津島の港から莫大な利益を上げていました。具体的にいうと、港湾整備と海賊退治の見返りに、余剰米を畿内で売りさばいてもうけている商人たちから関銭、津料という税金を徴収しました。それを見ていた信長は、上洛するとすぐさま琵琶湖水運の要衝である大津と、瀬戸内海の交易の要である堺を押さえています。
当時、すでに大航海時代を迎えたスペイン・ポルトガルの船が日本に到達していました。信長の元には、当時の欧州情勢についての情報も詳しく入ってきていたはずです。セビリアとリスボンという2大港湾都市を支配し、「欧州半国の王」と呼ばれたスペインのフェリペ2世のことも知っていたでしょう。
信長はフェリペ2世に倣い、今の香港、マカオ、寧波、厦門といった東アジアの要衝を手中にし、そこに倭城(城郭都市)を築いて欧州との交易を独占することを考えていたと私は思っています。
その傍証があります。1578年の第2次木津川口海戦で毛利水軍を破った際に使った6隻の巨大な鉄甲船です。鉄板が重くて外洋を航行したら転覆してしまうという人がいますが、その通りです。しかし信長の発想は、そんな一般人の発想を超越しています。鉄甲船は港の防御だけを専門とした船なのです。つまり波が穏やかな湾内だけを航行するので、外洋の荒波を想定する必要がないのです。信長は香港、マカオ、寧波、厦門といった東アジアの要衝を手中にした後、その交易拠点を守るために町を城郭都市化し、海側は鉄甲船に守らせるという構想を描いていたのではないでしょうか。
家康が秀吉から学んだこと:見栄で動くと身を滅ぼす
秀吉は自己愛性パーソナリティー障害かと疑うくらい、自分の優越性を証明するために戦い、天下を取りました。天下を取るまでは優れた人間洞察力の持ち主でしたが、取ってからは関心のあるのは自分のことだけになり、誇大妄想を抱き、異様なまでに周囲に称賛を求めるようになります。とにかく誰からも褒められたいんですね。
こうした人は現代の組織社会でもいます。誇大妄想は抱かないまでも、関心のあるのは自分のことだけで、自分語りは饒舌でも、他人に対しては質問一つしません。また常に称賛の言葉に飢えていて、歯の浮いたような褒め言葉でも有頂天になります。
秀吉の場合、見栄のためだけに天下を取ったように思えます。
権力を握ってからは、海外との交易や鉱山を独占することで巨万の富を築きましたが、自分の権力を誇示するために、それらを大坂城や聚楽第など豪壮華麗な建築物に費やしただけで、信玄や家康のように、民のための産業振興には投資していません。
朝鮮半島へ出征した文禄・慶長の役(1592~1598)は、信長の交易国家というビジョンを形だけまねたものでした。
交易が目的なら、信長のように港という“点”を押さえれば済みますが、秀吉は見栄っ張りゆえに陸地という‟面”で押さえようと、半島内部に深く入り込みました。ムダなコストがかかり、長期的視野に欠ける愚かなやり方で、案の定失敗に終わりました。
何より秀吉の政権運営が、総じて長期的視野に欠けていました。秀吉は、「公のことは秀長(秀吉の弟)に、内々のことは茶人の利休に」という具合に、秀長と利休という曖昧な位置づけの二人に口利き役を担わせ、実際の政権運営は石田三成や長束政家といった実務派官僚に任せるという変則的な方法に頼っていました。
どこが変則的かと言うと、秀長はまだしも、利休は役割も不明確な存在で、いわば法の網の目を潜り抜けられるジョーカーです。もっと具体的に言うと、賄賂をもらって秀吉に口利きするわけです。そんな存在は、法の支配を徹底させようとする三成にとって邪魔でしかありません。それゆえ利休は1591年、三成たちによって粛清されてしまうのです。
もっとも、秀吉もさすがに将来を考えてか、遅まきながら政治担当のスタッフを育て始めていて、彼らを甥の秀次に付けていました。それじたいはよかったのですが、1595年に秀次を切腹に追い込んだ際、何と彼らを一緒に殺してしまったのです。つまり、秀吉は次代を担うべき若い芽を自ら摘んでしまった。これが秀吉の生涯における最大の失敗でした。
また五大老制度もずさんすぎます。五大老でも秀吉から領国をもらったに等しい前田利家や、秀吉の庇護によって領国を維持できた宇喜多秀家はまだしも、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝は実力で領国を保持してきた戦国大名です。そんな連中を政権の中枢に入れてしまえば、秀吉の死後はやりたい放題です。つまり政権の中に政権があるようなもので、その利害が対立した場合、言うまでもなく己の利益を優先するわけです。
だから家康は秀吉の死後、待っていましたとばかりに、ほかの大老たちを排撃し始めるのです。こうした豊臣政権の脆弱さを知る家康は、江戸幕府の中枢に外様大名を入れるなどという愚を犯しませんでした。しかも同じ釜の飯を食ってきたに等しい四天王の後継者たちさえ遠ざけたと言われています。政権を維持するというのは、これくらいの厳しさがなければ困難なのです。
これらの豊臣政権の構造的欠陥は、秀吉が明確な国家像や国家を統治するビジョンを持たなかったことを端的に示しています。秀吉は経験からしか学べなかったので、軍事面では優れた能力を発揮しましたが、政治面では全くダメでした。仮に豊臣政権が続いたとしても、その基盤はいつまで経っても安定せず、民は困窮し、あちこちで一揆が起こっていたと思います。
秀吉が起こしたインフレを収めた家康の経済手腕
家康は、長期的視野に欠けた秀吉の数々の失敗を、豊臣政権の五大老筆頭として見てきました。
関ケ原の戦いで勝利した後に幕府を発足させてからは、ほぼその正反対の施策を行い、かつ秀吉が犯した経済・外交上の失敗の尻ぬぐいまで行っています。
当時、世界最大の金銀産出国だった日本の富を独占していた秀吉は、文禄・慶長の役でその富を大量に吐き出し、そのあおりで国内にバブル景気が起きました。秀吉の死を契機に終息しますが、インフレはその後も継続。コメが豊作なのに庶民は困窮し、餓死者が出る有り様でした。
そのインフレを、金=ゴールドを集めることで終わらせたのが家康でした。
幕府は銀の産出と流通を制限し、手持ちの銀と交換する形で明から金を輸入、それを退蔵して世間に出回る量を減らし、金の価値を上げることで相対的に物価を下げたのです。
円の流通量を減らしてインフレを抑える今の日本銀行のやり方と理屈は同じです。これが成功してインフレは収まり、幕府に対する民衆の信用度がアップしました。
それだけでなく、文禄・慶長の役で破壊された外交関係を修復し、中国・朝鮮だけでなくカトリック・プロテスタント国とも交易しようとしています。
意外に知られていないのですが、家康は経済の理屈をよく理解していたと思います。
混乱の世を収めた家康の長期的視野の国づくり
そんな家康の思惑とは裏腹に、豊臣家は秀吉の死後も大坂城に蓄えられた金銀財宝を、寺社の再興・造営のためにばらまいていました。
幕府のインフレ退治と真っ向から対立する方策であり、その代表的な寄進先が方広寺の大仏殿です。豊臣家滅亡の契機は、そこの鐘に刻まれた「国家安康」の文言への幕府の難癖でしたが、豊臣家の経済音痴ぶりに対する幕府の経済官僚の怒りがそうさせたという側面も、なきにしもあらずだと思います。
こうして戦乱の世を静謐に導いていったのが家康でした。
長期的な視野に立って治水事業や新田開発で民を豊かにし、秀吉の負の遺産を整理した外交・通貨政策に至るまで、家康の経営力は高いレベルでまとまっていました。
関ケ原や大坂の陣で諸大名が家康側についたのは、その軍事力を恐れたのではなく、こうした秀吉とは対照的な手腕と人間性を見て「この人なら世を静謐に導いてくれる」と期待したからだと考えています。
戦国時代の三大英雄の中でも、家康の政権運営手腕は突出していたと思います。
徳川家の始祖・松平家8代の発祥の地。松平家ゆかりの歴史的史跡・資料が多く残る。
松平東照宮は、当初は松平家の屋敷神(八幡宮と呼称)で、後に家康を合祀した。東照宮から高月院にかけての松平郷園地は、室町期の景観を意識して自然が保たれている。
松平家代々の当主の産湯に使われた産湯の井戸は、家康(竹千代)誕生時にここの水を竹筒に入れて岡崎まで早馬で届けたといわれる。
松平郷館では松平家に関する資料を公開中。
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取材・文:西川修一
編集:岩辺みどり
バナーデザイン:山口言悟(Gengo Design Studio)
イラスト:榊原 美土里