真田信繁(1567~1615)は、安土桃山・江戸時代初期の武将、軍略家。信濃国小県郡を拠点とする国衆・真田家に生まれる。祖父・幸隆の代より甲斐国の武田家に帰属。武田家滅亡後は人質として越後国の上杉家、豊臣家などで過ごす。2度にわたる上田合戦で父・昌幸とともに徳川家康・秀忠軍を撃退。1600年の関ケ原の戦いでは西軍につき、敗戦後は10年以上高野山・九度山に幽閉された。大坂冬の陣・夏の陣で大坂城の豊臣家側の武将として家康軍を追い詰めたことで、一躍歴史に名を残す存在に。諱(いみな)である「信繁」のほか「幸村」の名でも知られる。
優れた人から学び、その恩を大事にする
日本人は、勝者よりも敗者に惹かれる人が多いようです。とくに悲劇的な最期を遂げた人物は英雄視されがちです。
奇策を連発して平家を滅ぼしたにもかかわらず、兄の頼朝に見限られ、遠い奥州の地で死を迎えた義経は、「判官びいき」という言葉とともに、今でも万人に愛される存在となっています。
それと同様、真田信繁も、大坂冬・夏の陣という二つの戦いで彗星のごとく現れ、瞬く間に消えていったヒーローとして、日本人の心に強烈な印象を刻み込みました。しかし実は、信繁の生涯は謎に包まれています。今回は、その謎に包まれた前半生から説き起こしていくつもりです。
信繁の前半生で感じるのは、教育の大切さです。
そのカギとなるのは、まず父親が真田昌幸だったことです。昌幸は武田信玄の奥近習(おくきんじゅう)六人衆の一人でした。奥近習とは側近中の側近であり、将来の幹部候補生です。
幼い頃から信玄の側近くに仕え、実戦にも帯同し、信玄の戦略から立ち居振る舞いに至るまで徹底的にたたき込まれた昌幸は、信玄の後継者にふさわしい軍略家に育ちました。
信玄の薫陶を受けた者と受けなかった者との差は明らかでした。信玄の跡を継いだ武田勝頼は、当初諏訪家の名跡を継がされたため、幼いうちに信玄の側を離れています。それもあってか、信玄のような戦略眼を養う機会に恵まれず、強引で後先を考えないことが多く、また優先順位付けがあいまいで、それが墓穴を掘ることにつながります。
武田、上杉、豊臣など外での学びを取り入れ成長
信繁は教育環境にも恵まれていました。というのも武田信玄の軍略を父・昌幸から学ぶことができたからです。当時は父と子といっても、それほど交流する機会はありません。しかし二人の場合、関ケ原の戦いで敗れた後に配流された九度山であり余る時間がありました。そのため信繁は、昌幸の知るすべてを伝授してもらえたと思われます。
それだけではありません。19歳のときに人質に取られた上杉家で、直江兼続という師に出会い、義を重んじる“人間教育”を施されました。それだけでなく、この名伯楽からは上杉謙信の思想や軍略を間接的に伝授してもらえたのです。さらに家臣待遇で、1000貫以上の知行(武士に支給される領地)までもらっていたというから驚きです。場合によっては、家臣として召し抱えるつもりだったのかもしれません。
その後、信繁は豊臣家に人質として赴き、秀吉からいたく気に入られました。なんと豊臣姓をもらったうえ、従五位下・左衛門佐(さえもんのすけ)という官位に叙任されています。さらに秀吉の重臣の一人である大谷吉継の娘を妻にもらいます。これは家督継承予定のない信繁にとって破格の待遇でした。
家中や家臣団を持たない秀吉は、信繁のような有為の若者を優遇し、直臣化しようとしたのかもしれません。後年の信繁の言葉からすると、本人も豊臣家の家臣という意識があったのかもしれません。
戦国時代の人質についての考え方は、最近大きく変わってきました。もちろん親が裏切れば殺されますが、単に身柄を拘束されるだけではなく、今川家における徳川家康のように、武将見習いのような形で高い教育を施され、ある程度優遇されていたことが分かってきています。信繁も同様に高度な教育を受ける機会を与えられたわけです。
信繁は戦国時代有数の家中で様々なことを学び、多くの優れた人たちから刺激を受けることで、才ある武将に育っていきました。
こうしてみると教育の大切さを痛感します。教育というのは学問を教えるだけではなく、人間形成の面でも極めて大切です。後で詳しく述べますが、信繁には、一度でも会えば他人を魅了する人望や人徳があったようです。
今なら「可愛い子には旅をさせよ」という言葉があるように、我が子を海外留学させることで、様々な文化的背景を持った師との出会いの場を設けてやることが大切です。様々な文化や価値観に触れさせることで、国際人として鍛えることが、今の若者には必要だからです。
かくして武田信玄と上杉謙信とは間接的に、豊臣秀吉の謦咳には直接接し、彼らの思想や軍略をたたき込まれた信繁は、まさに化け物のような武将に成長していきました。そして紀州浅野家の監視下にあったにもかかわらず、幽閉されていた九度山を飛び出し、大坂の陣に参戦したのです。
柔和な性格で人に好かれるリーダー
今に伝わる信繁のパーソナリティーを一言でいうと、控えめで大言壮語せず、誰にでも好かれる好人物となります。
兄信之(信幸)の信繁評として残っているものに、「物ごと柔和忍辱にして強からず、言葉少なにして、怒り腹立つことなかりし」というものがあります。つまり柔和で感情の起伏が小さく、口数も少なくて怒ったりしない、という意味です。
また真田家に伝わる文書には、「性質屈僻(くっき)ならず、常に人に交わるに笑語多く和せり」とあります。つまり「性質は偏屈でなく、常に皆と交わり、一緒に笑い合う」という意味です。
これは、侍ジャパンの栗山英樹前監督や米国のアメフトの監督のような、選手の中に溶け込み、一体感を持って戦う現代的なリーダーシップとも共通します。
こうしたことから、信繁がとても親しみやすい好人物だったと分かります。
これも人間教育のたまものです。
リーダーシップとは面白いもので、例えば、織田信長や大久保利通のように冷徹で厳しく、その姿が見えると誰もが震え上がったリーダーもいますが、部下の輪の中に入って一緒にワイワイやるリーダーもいます。どちらがよいのかは一概に言い切れないものですが、最近のスタートアップ企業を見ていると、ワイワイ型のほうが、業績が伸びていると思います。
話を信繁に戻しますが、父・昌幸からは武田流の軍略を、直江兼続からは「義」の大切さを、秀吉からは人間洞察力やリーダーシップを学んだはずです。義父の大谷吉継や石田三成とも親しく接しており、そこから多くを吸収したとも考えられます。そして、それらを何の抵抗もなく吸収していけたのは、兄・信之が言うところの、柔和で人あたりのいいパーソナリティーによるものでしょう。
軍記モノやゲームで登場するような、典型的な戦国武将のキャラクターとは少し異なりますね。残されている肖像画もちょっとさえない中年男風が多いようですが、それが彼の実像だったのでしょう(笑)。
そしてその信繁のリーダーシップとパーソナリティーは、信繁が最も輝いた瞬間――大坂冬・夏の陣における浪人衆を率いた勇猛果敢な戦いぶりに直結しているのではないかと思われます。
(注:年齢は数え年)
日本100名城27番。1583年、真田信繁の父・昌幸が築城。徳川軍を撃退した第1次、第2次上田合戦の戦歴を持つ。 関ケ原の戦い後、城主の真田信之が松代に移り破却されるも、新城主の仙石氏が3代にわたって再建に着手。その後松平氏が7代にわたって城主となりさらなる修復が施される。現在は公園。 本丸跡を囲む堀と土塁、3基の櫓や1基の櫓門(復元)があり、城下町の町割りも残る。武者行列が町中を歩く上田真田まつりや、春の千本桜まつり、秋の紅葉まつりほかイベント多数。
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取材・文:西川修一
編集:岩辺みどり
バナーデザイン:山口言悟(Gengo Design Studio)
イラスト:榊原 美土里