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「家族の会社は潰せない」釣り糸機械から高級寝具へ(第1回/全3回)
2008年の北京オリンピック。競泳の北島康介が、100m・200m平泳ぎで金メダルを獲得して、日本中が沸きました。
会場でその瞬間を目撃していた「エアウィーヴ」代表取締役会長兼社長の 高岡本州は、偉業を目の当たりにした興奮とともに、自社製品が爆発的に売れることを確信しました。
すぐに社内の生産体制を強化する指示を出したといいます。
2007年、釣り糸を作る押出成形機械メーカーから寝具メーカーへと「本業転換」したエアウィーヴ。身体の変化に敏感なアスリート、特に4年に一度のオリンピックに向けてコンディションを整える一流の選手から選ばれる寝具を目指し、研究開発を行っていました。
2008年の北京オリンピックに向けては新商品を作りました。薄く丸めることのできるマットレスパッドで、水泳選手や陸上競技選手たちが、選手村に持参できるようにしたのです。選手たちの活躍が、自社製品やブランドの認知拡大につながることを期待していました。
しかし、結果はともないませんでした。
北島康介をはじめ、エアウィーヴのマットレスを使用していたオリンピック選手がメダルを獲得。連日、マスコミに取り上げられました。ただ、寝具を持参したことまでは紹介されず、売上にはまったく結びつきませんでした。
「売上に直結する宣伝活動も、予算の掛け方も不十分でした」
高岡社長は、北京での失敗をこう振り返ります。
大きな売上を生むきっかけにはならなかったものの、北京オリンピックからは、その後の成功につながる知見を得ることができたといいます。
高岡社長が次に打った手は、エアウィーヴの魅力を多くのアスリートに広めるために、自社製品をアスリートだけでなく、選手を支えるスポーツトレーナーたちに配ることでした。北京オリンピックの時すでに、トレーナーにも提供を始めていました。
「トレーナーは複数のアスリートをケアするので、選手たちのパフォーマンスを少しでも向上させる良いアイテムがあれば、自身が担当をしている多くの選手たちに薦めてくれます。エアウィーヴの質の良さがトレーナーに認められれば、まだ商品を使っていない別の選手や他のトレーナーにも評判が自然と拡散されていくのです」
次のチャンスは、冬季。2010年のバンクーバーオリンピックでは、開催前から宣伝活動を開始しました。
これが功を奏して、多くのメディアがエアウィーヴを「アスリートたちが愛用する寝具」として取り上げました。それを機に、2007年のエアウィーヴ販売開始以来、工場は初めて繁忙期を迎えます。
こうして業績が上がる中で、さらに起爆剤になったのが、浅田真央との縁でした。これもトレーナーたちに商品を配ることに注力した結果です。
社の方向性を決定づけた 浅田真央の一言
浅田真央が、エアウィーヴを愛用しているらしい――。
そんなうわさを聞きつけた高岡社長は2010年に浅田が所属していた中京大学まで会いに行き、商品の印象や感想を細かくヒアリングする機会を得ました。
当日、高岡社長はベッドの上に敷くマットレスパッドと、持ち運びのできるポータブルタイプの2種類を持参します。ポータブルタイプは、丸めやすいように少しだけ細くした糸を使用していることを高岡が説明していると、彼女がポロッと言いました。
「私は普段と全く同じ製品がいいんです」
これに高岡社長は驚きました。
「私たちからしたら、大体同じくらいの細さ、という感覚でしたが、センサーのように敏感な身体をもつ一流アスリートの彼女にとっては、ミリ単位の差が、大きな感覚の違いになるんです。どれだけ細かい要求に応えられるか否かは、会社の技術開発力がものを言う。こういう人たちをサポートできる会社でありたいと思った」
浅田からの直々のフィードバックを元に、一般の消費者にとってもより良い商品になるよう改良に取り掛かかりました。スポーツの成績に直結するため良質なものしか使わない一流のアスリートが味方になってくれれば、自社への売上に大きく貢献してくれるはずだ、という確信もありました。
一方、エアウィーヴを愛用していたスポーツ選手は、浅田の他にもいました。北京オリンピックでは選手たちの発信力に期待をしながら、望んだ結果を得られなかった教訓がありました。このため、浅田の影響力だけに自社の命運をかけるつもりはなかったといいます。
高岡社長が浅田と面会してから1年後の2011年、予期せぬことが起きました。
四大陸選手権に向かう浅田が、エアウィーヴを自ら運んで空港に現れたのです。その姿をテレビカメラが追いました。メダル獲得が期待され、一挙手一投足を追ったカメラは、彼女が手の甲に書いたメッセージもアップで映していました。
決戦の日にエアウィーヴを忘れないようにと、浅田が「マットレス」と手書きしていたのでした。
国民的人気選手である浅田が自社の製品を本当に愛用してくれている姿を見て、高岡社長らは、アンバサダー(自社製品にフィードバックをもらいながら、広告塔を担ってもらう)に就任してもらうことを決めました。エアウィーヴは、2023年現在も浅田真央との契約を継続中です。
「彼女はいつも、自分がどうあるべきかを考えています。競技活動を終え、フィギュアスケート選手としての現役を引退した今は、これまで応援してくれた人たちへの感謝を伝えるため、そして、自分の殻を破ろうと全国を回っています。他者との競争だけではなく、常に自分をどう高めたらいいかを考えているわけです。それは私たちの会社も全く一緒。他社と比較した上での戦略は練らないんです。自分たちの作る寝具がどうあるべきか。浅田さんの姿勢から、多くのことを勉強させてもらっています」
浅田真央がアンバサダーになってからは、あらゆる方面から商品の注文が殺到しました。老舗旅館の加賀屋やJAL国際線ファーストクラスなどで商品が採用され、百貨店での店舗展開も進みました。こうした実績が認められ、2012年のロンドンオリンピックでは文部科学省から「チーム『ニッポン』マルチサポート事業」への協力を依頼され、日本選手団に寝具を提供しました。
この頃には工場の稼働が追いつかなくなり、商品は半年待ちの状態となりました。
低反発素材の寝具がブームとなっていた業界で、エアウィーヴの「高反発で復元性が高く、寝返りが楽」という特徴が多くの消費者の心をつかみました。エアウィーヴの「外様」からの挑戦が、業界の常識を大きく覆すことになったのです。
それは寝具の買い求め方の変化でした。
寝具を扱う百貨店の売り場や地域の専門店などは、消費者が欲しい時以外には足を運ばない場所でした。いわゆる「目的買い」がほとんどで、名前の知られたブランドが優位。買い替えの頻度も低かったのです。
それが、機能性を見比べたり、素材や機能性を重視した寝具を新規や追加で購入したりするようになりました。新たな消費行動を引き起こしたのです。
エアウィーヴは勢いづきました。
2013年には、日本オリンピック委員会のオフィシャルパートナーとなり、売上高は100億円を超えました。2020年の五輪開催地が東京に決定した時には、オリンピック・パラリンピックの選手村全室にエアウィーヴが採用されることが会社の目標になりました。
高岡社長の父親は「ビジネスをするには、池の水が大きいところを相手にしないといかん」と言ってきました。国内の市場が飽和状態になることが見えてくると、次は必然的に海外マーケット、アメリカ進出を目指すようになりました。
一度は失敗した アメリカ進出に再度挑戦する理由
エアウィーヴは2015年、ニューヨークのソーホーに路面店を出店し、アメリカ進出を果たしました。しかし、2016年までに30億円以上の投資をしたものの、2017年には事実上の撤退をしています。
経営トップである高岡社長が、1年の半分以上を海外で過ごすようになり、その間に国内事業がおろそかになっていきました。社長不在でも国内事業が回る仕組みを作っておくべきでしたが、アメリカ進出までに整っていなかったのです。
「攻めることを急いでしまって、まるで朝鮮出兵した豊臣秀吉のようでした。国内事業では現在、売上は200億円を超えていますが、国内の寝具のマーケットはそう大きくありません。国内トップメーカー数社だけでも1千億円の規模です。一番大きな“池”であるアメリカは、やっぱり攻めたいんです」
一度は撤退したアメリカ。もう一度、挑戦するかと聞いてみました。
「もちろんやりますよ。秀吉は2度同じ方法で朝鮮出兵して失敗していますが、私は、同じやり方では進出しません。現在は、ロサンゼルスで今年から来年にかけて出店するための準備を進めている最中です」
エアウィーヴにとって、事業転換は当初、家業を守るための選択でした。それが、自社のコア技術に目をつけ、業界の流行を逆手に取った魅力的な商品開発をしぶとく続けました。そして「最も感度が高く、広告塔にもなる消費者」として五輪アスリートに目をつけ、さらに彼女らのトレーナーらに絞ったマーケティング戦略が功を奏したのです。
次回は、エアウィーヴの今後の海外展開の方針と、常に新しい手を打ってきた高岡本州社長の経営論について話を深掘りしていきます。
この記事はドコモビジネスとNewsPicksが共同で運営するメディアサービスNewsPicks +dより転載しております。
取材・文:守屋美佳
撮影:曾川拓哉
編集:松浦美帆、野上英文
デザイン:山口言悟(Gengo Design Studio)